2008年4月6日 説教
「豚に真珠?目に丸太?」
牧師 武 田 真 治
マタイによる福音書 7章1〜6節
サムエル記下 12章1〜9節
 私は、今日の箇所を中学生の時に教会で初めて聞いて忘れられなくなった思い出があります。本当にイエス様の教えはすごいなあと思ったものでした。

1、「人を裁くな」
まずイエス様は『人を裁くな』と命じられています。この言葉を、裁判をするなとか、裁判に関わるなという意味で捉えてしまうと、クリスチャンは裁判官とか検事や弁護士にはなれないことになってしまいます。そんなことはありません。
 ここで「裁く」と訳されている言葉はクリノーという言葉で、その形容詞形はクリティコスであり、ここから英語のクリティカル(批判的)という言葉が出てきたのでした。ここからも分かりますように、単に裁判をするというよりは「人のことを批判し、あれこれ言う」ことと考えられます。従ってイエス様は、私たちが自分勝手に、他人のことを批判し、評価することを禁じておられると言えます。
 どうでしょう?私たちはいつも人のことをあれこれと批判し、比べては評価を下しています。テレビを見ながらでも、出てくる人に向かってああだこうだというのです。そして、家族に対してまでも「もうあなたって人は?」とか「何やってんの?」とか余計に厳しかったりしますね。そしてそれ故に自分に対する人の評価も気になって仕方がないのです。そのような私たちに対してイエス様は「もう人のことをあれこれ批判するな」と言われるのです。
 なぜ批判してはいけないのでしょう?その理由をイエス様は『あなたがたも裁かれないようにするためである』と言われています。ここで間違ってはいけないことは、この言葉は人のことをあれこれ言うと人からもあれこれ言われるから批判するなという意味ではないということです。そのようなこの世を渡る知恵を語っておられるのではありません。ここで私たちが「裁かれる相手」は他人ではなく「神様」なのです。つまり「人のことをあれこれ言うと神様から裁かれるからやめなさい」という意味なのです。だからこの後にイエス様が『あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる』と語っておられるのです。ここも、他人からではなく神様から裁かれ、量られるということなのです。ここがまず大事な点だと思います。
 人のことをあれこれ言う人は、どこかでそれだけの見識や知恵が自分にはあると思ってそうしているのです。しかしそれこそ傲慢ではないでしょうか?そんなに偉くりっぱな人間なのでしょうか?
 人のことを批判している時にそこで明らかになることは、自分がどういう目で人を見ているかという事です。人を裁く時に、結局その人が他人をどういう基準で見ているか、どんな目で人を見ているかが明らかになってしまうのです。 
 血液型だけで簡単に人を判断していたり、どこで生まれ育ったかでその人格まで決めつけるとか、そのような偏った見方(偏見)をもって人を見ていることがそこで明らかになるのです。そのような偏見を持っているということ自体、神様に裁かれることになるのではないでしょうか?そんな偏見を持っているのならば、ではそのあなたのその偏見で裁いてあげようかと神様に言われてもしかたがないよとそうイエス様が教えて下さっているのです。つまり、人をあれこれ言う者はそこで自らの「愚かさ・罪」を暴露するということなのです。簡単に人をあれこれ言う者は実はその人の愚かさ・軽さを公にしているだけだと言われているのです。耳に痛い言葉ではないでしょうか?

2、目の中の丸太?
 だからイエス様は次にこう言われるのです。即ち『あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、「あなたの目からおが屑を取らせてください」と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか』と。
 人のことは、おが屑のような小さな欠点や汚点でも気になり、「赦せない」のです。しかし、いざ自分のこととなると目の中に丸太のような大きなものが入っていても気にならないのです。それほど自分に対しては「甘い」ということでしょう。
 いやむしろ、目の中に丸太が入っていることで本当はもう見えなくなっているのです。正しい判断を出来なくなっているのに、にもかかわらず人の「おが屑」が許せなくて、それを指摘している、その自らの愚かさにまず気づくべきではないかと言われておられるのです。本当に耳に痛い言葉です。
 今日はもう一つ、旧約聖書のダビデが起こしたバテシバ事件を読んで頂きました。最初、ダビデは自分がたいへんな罪を犯してしまったとは思っていなかったのでした。しかし預言者ナタンから「自分にはたくさんの羊があるのに、他人の羊を無理やり奪った男の話」を聞き、そんな男は「死刑にしろ」と裁きを下した時に、ナタンから「その男はあなた自身だ」と指摘されて、初めて彼は自分の罪に気づいたのでした。まさに人のことは気づけても自分のことは見えなかったのです。これはダビデだけでなく、私たち一人一人の姿ではないでしょうか?

3、人の癒しを実現するために

 では、このようにイエス様の言葉を読んできますと結論としては、もう人のことをとやかく言わないで自分のことだけを考えていればよい、自分の目の中の丸太を気にするように、ということに落ち着くのでしょうか?人のことを構わず自分のことに集中しろと?
 しかしそうではありません。イエス様はこの後に続けて『偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる』と語られるのです。目標はあくまで「兄弟の目からおが屑を取り除く」ことであり、そのために『まず』自分の目から丸太を取り除けと、そうすればよく『見えるようになって』兄弟の目からおが屑を取り除くことが出来るようになるのだということなのです。
 この「目からおが屑を取り除く」という行為の意味するところが大事です。それは、実際にそのような状態になったことを考えれば分かりますが、目の中にちょっとでも何か異物が入ったら「痛くてがまんできなくなる」でしょう。涙が出てしかたがありません。すぐに取ってしまいたいとあせります。そのようにまさに「目からおが屑を取り除く」こととは、その人の「癒し」であり「痛みからの救い」です。従って相手の目からおが屑を取ってあげることは「治療・救いの業」を施すことなのです。人に福音を伝道していくことも含まれていると考えてもいいかもしれません。それが目的・目標なのです。その業を為すためには、まず自分の目の中にある丸太を取り除くことから始めようと言われておられるのです。
 つまり、自分の問題や自分の罪をあたかも無きものであるかのように自分をちゃんと直視できない者が、いくら人の癒しや救いに関わろうとしてもダメだと、うまくいくはずがないということなのです。自分のことをちゃんと「見る」ことから始めていく者が、人を「見る」ことにも関わることが出来るのだと。
 考えてみれば、私たちが子供の頃、親や教師に代表される上から諭し命令する存在に対して、反発する理由は、その言うあなたは出来ているのかということではなかったでしょうか。少なくとも、自分のことを棚に上げて人を批判する存在には話を聞く気にもなれなかったのではないかと思います。ましてや救いの問題や罪の問題に関係する事柄であるならば、自分にもあるそれらの問題を棚上げしておいては語れないはずです。
 そのような自らの罪に泣かされ、傷つけられ、これをなんとかしようと真剣に自分の救いを求めてきた者であるからこそ、また、今もそのことを求めながら生きている者であってこそ、初めて人の罪の問題や救いについて一緒に考え、一緒に悩み、癒しへの道を少しは提供できるのではないでしょうか。
 その人に自分の目の中の異物を取ってもらおうとすることは余程の信頼がその人に持てないとお願いできないことです。信頼がない人に自分の目を差し出すことは恐ろしいからです。何をされるか分からないのですから。そうしても良いと許してもらえる人になれることが大事なのではないでしょうか?
 その人からの信頼を得るためにはそれこそ同じ問題で悩んだ経験のある人で、しかもその問題を少しは解決して生きている人だと思えるから信頼して任せてもらえるのではないでしょうか。そうでなければ受け入れてもらえません。自分の目の中から異物を取り除いた「痛い経験」をしたことのある人だからこそ、人からもお願いされるのです。
 先ほどのダビデが、そのような罪を犯した者でも人々に愛され、また尊敬され、イエス様のことも「ダビデの子」と言われるほどに尊重されている理由は、彼がその自らの罪を本当に悔い改め、赦しを求めて生きたからではなかったかと思います。そのような痛みをも知っている存在だからこそ信頼され、またイエス様にも通じると考えられたのでしょう。私たちもかくありたいです。

4、豚に真珠
 最後にイエス様は以上のことを踏まえて『神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう』と言われています。
 これは一つの警告・注意です。人の目の中からおが屑を取り除こうとしていく時に、受け入れないで反対に「かみついてくる」ような人もいるよという教えです。
 当時の「犬や豚」は現在の飼われている犬や豚ではなく、野生の豚や野良犬のことです。自分が大事にしている「神聖なもの」を平気で踏みにじる者もいることを覚悟しておきなさいということでしょう。イエス様ご自身のご生涯がまさにそうでした。
 自分が「救われたこと・癒されたこと」は自分にとっての「神聖なこと」です。自分で大事にしていかなければいけないことなのです。 
(4月6日礼拝説教−抜粋)