2008年4月27日 説教
「良い実は良い木に生る」
牧師 武 田 真 治
マタイによる福音書 7章15〜20節
エレミヤ章 8章4〜13節
1、偽預言者
 今日の箇所でイエス様は『偽預言者に警戒しなさい』と警告の言葉を語られています。なぜ、急に偽預言者のことについて教え始められたのでしょうか?
 それは、この前の箇所との関連があるからです。七章十三節には『狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い』とありました。滅びに通じる広い門や道に入っていく者が多いことをおっしゃっておられました、それは同時に、そのような広い門や道に導こうとする指導者も実はいるということではないでしょうか?間違った道を正しい道だと誘いこもうとする導き手もいるから注意しなさいよという教えではないでしょうか?
 ここでイエス様が偽預言者を警戒しなさいと言われていることは、偽預言者という存在がいることが前提になっています。実際に存在しているからまどわされるなと言われているのです。  
 どうでしょう?この偽預言者への警告を聞いて、ああ、もっともだなあー世の中にはおそろしい、とんでもない宗教や宗教家っているよね、人を脅して恐怖をあおって人々を駆り立てるような、自称宗教家っているよねと、でも、自分達はもう大丈夫、だってもう真の救い主、イエス様を知ったから、自分達はもういいよねと思われるかもしれません。しかし、そうじゃない。その偽預言者は十五節で『彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところへ来る』とあるからです。
 この山上の説教は何より信者たち、教会のことを頭に於いてイエス様は語っておられます。従って『あなたがたのところに』ということは教会の中までも入り込んでくるということです。
 そう読むと『羊の皮を身にまとって』ということは、単に、鋭い爪とか牙とかを持たない攻撃性のない羊のような形を装ってと読まれるのですが、それだけではなく「羊の姿で」ということは我々クリスチャンの姿で入って来るということも意味しているとも読めるのです。
 イエス様がヨハネによる福音書十章で『わたしは良い羊飼いである。わたしが来たのは、羊が命をうけるため』と語られていますように、私たちはその羊なのです。その羊と同じ姿で入ってくるから、だから気をつけないといけないよとイエス様はおっしゃっておられるのです。

2、外側と内側
 その偽預言者は『内側は貪欲な狼である』とあります。羊をたべちゃうということですね。羊を食い物にし、羊の命を奪うことが目的だということです。
 どうでしょうか?旧約聖書では、預言者は本来、人を導く立場、あるいは人に良き道、悪しき道を示す立場にある人です。ところが偽預言者は、最初は羊の格好、つまり信者の姿をして自分も従う者、一介の信者に過ぎませんと腰の低い姿勢で入ってくるけれども、その本性は「狼」であるということです。「貪欲な狼」ということは、結局、自分の欲望を満たすことが目的だということです。
 イエス様は先ほどの『私は良い羊飼いである』と語られた時、なぜ良い羊飼いと言えるかと言うと『私は羊のために命を捨てる』からだとおっしゃいました。そして、羊の命を守るために十字架につけられ命を捨てられたのでした。まことの預言者は羊のために命を捨てる、ここが違うのです。

3、実で木を知る
 では、その人物が偽預言者かどうか、どこで見分ければいいのでしょうか?その見分け方がこの後十六節以下の言葉です。
 即ち『すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い気が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。』です。
 ここで実という言葉で表わされているものは大きく分けて三つあるのではないかと言われています。
 一つ目は、実行という言葉がありますように、木がならす実とは「その人の成果、業績」と言えます。その人がどんな姿をしていようが、どんな人物であるか、それよりもその結果として表れてくるもので判断しなさいと読むことが出来ます。
 このことについて聖書の解説者のシュラッターという人はこう述べています。「偽預言者であるかどうかは、彼らが信仰を働かせているのか、傲慢にすぎないのか、また、平和を造り出すのか、争いを巻き起こすのか、また悪を克服するのか、強めるのか、それとも人を清めるのか、汚すのか、彼らがもたらすものを見ることができる」と書いています。成程と思います。
 二つ目、この木が人間のことを言われていると考えますと、その実は「その人の言葉」という理解もあります。つまり、良き人からは良き言葉が、悪しき人からは悪しき言葉がおのずと出てくるから、その人の語っている言葉から見分けることができるということです。先ほどの羊から狼ということで言えば、りっぱなことを言っていても、結局、自分の言葉、自分の思想を聞かせようとするものかどうかで見分けられるということではないでしょうか?
また、3番目の理解として、その木を指導者と考えますと、その木から出てくる実とは「信者たち」と読む理解です。
 そうすると、良き指導者からは、良き信者が生まれ出る、けれども、悪しき指導者のもとにはどうしたって悪しき信者しか生まれないということになります。だから、大事なのは良い木=良い羊飼いにつながっていることが大事なのだということに尽きるのではないでしょうか。

4、私たちの中にもある罪
 それは更に、羊から狼に変わる者が偽預言者ということにもなりますから、羊としてイエス様につながっていた者が途中から、自分が指導者になろうと変わってしまうことも意味することになります。信仰者が途中から偽預言者に成り下がってしまうということです。
 その意味で言うならば、今までこの偽預言者は、外から教会の中に入ってくる存在としてもっぱら考えておりましたが、羊であったものが狼に変わるという事なら、私たちにも起こりうることではないかと言えます。イエス様という良い木につないで頂いた者なのに、そのすばらしさや恵みを忘れて、その木から離れて他の木につながろうとしたり、あるいは自らが指導者となり自分に他の羊を従わせようとする者と変わってしまう、その危うさ。これもまた私たちの中にある人間の罪として認めるべきことではないでしょうか?私たちも、人に対して、教会に対して、偽預言者になってしまう危険があるのだと、だから注意しなさいとイエス様はあえて厳しく警告しておられるのではないでしょうか。
 私はどうしてもここでイスカリオテのユダのことを思います。彼はイエス様の羊でした。でも、そのイエス様を裏切っていきます。そこには色々な理由がもちろん考えられますが、そのひとつに今日の箇所から言えば、羊から狼へ、つまり自分が指導者になろうとした、自分の思いでイエス様を動かそうとしたのではないかと思うのです。それは何もユダだけの罪ではない、私たちにもそういうことがありえます。自分の意見が通らないと承知できない、自分の存在自体が否定されたと感じるのです。従わせたい誘惑です。
 でも、そうじゃないはずです。そこで通されるべきものは主のみ旨です。成るべき実は、主の救いの業です。そうでなければ教会ではない、偽りものだということなのだと思うのです。
 イエス様という「まことの木」につながっている私たちが、その木の「実」であるならば、逆にいえば、この私たちという実を通して、イエス様という木を見られる、判断されるということがあり得るのではないでしょうか?それは、私たちが人目を引く良い人間になることを意味するのではなく、むしろキリストにつながることの素晴らしさ、キリストにつながるということがどう生きることかを、その平安を、表していくことこそが大事な「証し」となるのです。
(4月27日礼拝説教−抜粋)