2008年5月25日 説教
【特別伝道礼拝説教】
「祝福と慰めの中に立とう」
加藤 常昭 牧師(前鎌倉雪の下教会牧師)
マタイによる福音書 5章 1〜12節
哀歌          2章18〜19節
 1、祝福の言葉
 今歌いました讃美歌469番はボンヘッファアーが作った讃美歌です。彼が獄中で自分の婚約者に向けて何通も送った手紙の中の一つに、その婚約者と一緒にこの歌を歌おうと遺した讃美歌でした。この讃美歌は「良き力にわれかこまれ」と始まります。悪の力に捕えられている状況の中でも神様の良き力が取り囲んでいることを思い出すようにと教えてくれます。
 皆様にヘブライ人への手紙の最後の祝福の言葉を贈ります。「永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。」
 2、主イエスの祝福
 私の恩師でもあり友人でもあるボーレン先生に受けたドイツでの最初の授業は、この山上の説教の祝福の言葉を生徒たちにいろいろと言い換えさせて読ませるものでした。私たちは言葉の順番を入れ替えたり、いずれかの言葉を強調したりして読みました。今、その意味でここをもう一度読むならば「私のように心の貧しい人は幸いである、天の国はその人たちのものである」と読みます。
 私は声楽を勉強したことがあります。私を指導してくださった先生は、最初はひたすら私のまねをしなさいと言われました。そして、まねができるようになると初めて、後は自由に歌いなさいと指導して下さいました。
 山上の説教の祝福の言葉は、主イエスが弟子たちに向けて語られたことばです。それは師匠と弟子の関係の中で「師匠である私と同じようにあなたがたもありなさい」という教えです。
 従って「心の貧しい人々は幸いである」という言葉は、主イエスご自身が心の貧しい方であるから、その主と同じように心が貧しいものであるようにと、そうすることによって幸せに生きられるようになれると言われているのです。主イエスと同じように心に貧しく生きる者はとても幸いな者であると言われています。私たちに幸せの道を示して下さっています。
 3、悲しむ人
 次の「悲しむ人々は、幸いである」も、その幸いはイエス様と同じように悲しんでいるから幸いだと言われているのです。その者は必ず慰めを受けるからと。
 読んで頂いた旧約聖書の哀歌2章18節にも「おとめシオンの城壁よ、主に向かって心から叫べ。昼も夜も、川のように涙を流せ。休むことなくその瞳から涙を流せ。立て、宵の初めに。夜を徹して嘆きの声をあげるために。主の御前に出て、水のようにあなたの心を注ぎ出せ。」と書かれてあります。
 曽野綾子さんの書かれたものに『哀歌』という小説があります。
 アフリカのウガンダの修道院に遣わされた一人の修道女の話です。そこではツチ族とフツ族との激しい対立があり、300万人もの虐殺が続く中で、何も出来ないでただ目撃するだけの役割しかないと思えるような状況に於いて、しかしその修道女はただ徹夜で涙を流し続けます。そこに現れている人間の愚かさをただ悲しむことに徹して生きる姿が描かれます。
 また、かつて旧東ドイツの教会では、悲惨な日常の中で、ただ集まって悲しみの涙を流すだけの集会が開かれていました。ポーランドでも激しい対立がありました。そこでも人々は悲しむために教会に集まったのでした。
 このように教会には、人間の悲惨な行為や姿に対して、また歴史の過酷さに対して、悲しむことただそのために集まる人々がいるのです。
 それは主イエスが何より悲しみの人であったから、悲しみの中にある人こそここに来る資格があると言われておられるからです。「私のように悲しむがよい、その者は幸いであると。なぜなら慰めを受けるから」と言われておられるからです。
 ドイツ人が教会の中に、喜んで刻む主イエスの像のひとつに『憩うキリスト』という像があります。キリストとも呼ばないでただ『憩う人』とだけ呼ばれる時もあるほどですが、それはただひっそりと教会のかたすみに立っているだけの像です。教会に集う苦しみにある方や悲しみにある方のそばにただひっそりと立つ主イエスの姿を表している像なのです。
 主イエスは、ラザロの墓の前で涙を流されました(ヨハネによる福音書11章)。ある聖書の解説者はこの箇所について「私たちはここでの主イエスの涙を信じることができる」と述べています。主イエスというお方は悲しむ者のそばにいて、その悲しみを一緒に悲しんで下さる方であることを信じることができることは幸いなことです。主イエスは、その私たちの悲しみを慰めるために十字架にかかられたのです。
 4、悲しみの根源
 私たちの悲しみがどこからくるかを主イエスはよく知っておられました。
 それは一つには人間が持っている「罪」です。罪こそ私たちの悲しみの根源です。人間の罪によって残虐なことや悲惨なことが起こります。教会に集まる者は世界の悲しみの背後に人間の罪の深さを見ます。
 その私たちの罪が主イエスを十字架に追い込ませたのです。しかし、主イエスはその人間の罪を十字架によって自らあがなってくださいました。
 また、もう一つの悲しみの根源は「死への恐れ」です。死を前にして人間は為すすべがないからです。そして、神様の守りなしに私たちが死を迎えなければならないことは実は更に恐ろしいことです。
 その神抜きに死ななければならない罪人の恐怖を、しかし主イエスは自ら復活されることによって払い除けてくださったのです。ここに「慰め」があります。
 ですから、主イエスのそばでこそ私たちは悲しみを受け止めることが可能となるのです。主イエスこそが悲しみの人であり、私たちの悲しみを知っておられる方であるからです。そして、その悲しみの根源である罪と死の恐怖を取り除けて下さる方だからです。
 このまことの慰め主であられる主イエスがおられる教会という場所だけが、それ故、悲しみを見つめることができるのです。
 悲しみを受け止められない人は、その悲しみは怒りとなります。そのような怒りは、社会を呪い、他人を傷付けることや自分自身を傷つけることに向かってしまうのです。悲しみを知っていて下さる方がおられるから、私たちは自らの悲しみを受け止めることができます。
 「悲しむ人々は、幸いである」とは、人は涙を流さないでも幸せになることができるなどと思うなという意味もあるのです。
(5月25日説教抜粋)
(文責在記者)