2008年8月3日 説教
【平和聖日礼拝説教】
「平和聖日―彼らが愚かなふるまいに戻らないように」
牧師 武 田 真 治
詩篇 85編 1〜14節
1、平和のメッセージ
 今日の箇所の九節は、以前の協会訳聖書では次のように訳されていました。
  
  
『わたしは主なる神の語られることを聞きましょう。
  主はその民、その聖徒、ならびにその心を向ける者に、平和を語られたからです』
 
 しかし、今回の新共同訳では、
  
  
『わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
   主は平和を宣言されます
   御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
   彼らが愚かなふるまいに戻らないように。』

 この違いは、前の協会訳聖書が翻訳の上で重視した底本が、セプチュアギンタ(70人訳)と呼ばれる旧約聖書のもっとも古いギリシャ語訳聖書でしたが、今回の新共同訳が重視した底本が、旧約聖書のもともとのヘブライ語マソラテキストであったことに依っています。
 ですから、新共同訳の方がより原文に忠実であると言えます。そして今回、このように翻訳されたことによって、この九節はとても大事な《平和のメッセージ》を、私たちに伝えてくれるその本来の力を得たように思います。即ち、神様が私たちに『平和を宣言される』のは、二度と『彼らが愚かなふるまいに戻らないように』させるためなのだということなのです。
 これは、まさにあの被爆の碑に刻まれている言葉「安らかにお眠りください。過ちは二度と繰り返しませんから」に通じる言葉ではないでしょうか。

2、彼らの愚かなふるまい?
 ここで問題になる点は、『彼らが愚かなふるまいに戻らないように』の「彼ら」とは誰のことを指して言われているのかという点です。
 二つの理解があります。一つは、かつて「愚かなふるまいをした」者たちを指して「彼ら」と呼ばれているという理解です。
 そう読むと、神様が平和の宣言を為された理由は、かつて愚かな行いをした者たちに二度とそのような行為を繰り返させないために、そのための歯止めや模範となっていくことを願われて、何よりまず『御自分の民、主の慈しみに生きる人々に』対して「平和を宣言された」ということになります。
 従って、私たち「主の民」の務めは、そのようなかつて愚かなふるまいを犯してしまった者たちに悔い改めと反省を迫り、二度とそのような愚かな行為を繰り返させないように導く役割が与えられていることになります。
 どうでしょうか?
 ここでその「愚かなふるまい」ということを、戦争を始めることや原爆を用いることと見做すならば、戦争を起こした人々や国、あるいは原爆を落としたアメリカやそのような状況を招いた日本の軍部や責任者たちなどを直接的には思い浮かべます。あるいは、もっと広く人類と受け止めることも出来ます。
 そして、二度とそのような愚かなふるまいを起こさないようにと、私たちが「平和を!」と声を出していくことは主の民にこそ求められているのではないかと読めるのです。

3、戦争の責任
 更に、もう一つの理解は、ここでの「彼ら」とは、その直前に置かれている『御自分の民、主の慈しみに生きる人々』のことを指しているという理解です。
 この読みによれば、私たち「主の民」がかつて「愚かなことをした」者たちそのものだということになります。つまり、神様の民であるはずの私たち自身が、かつて愚かなことをしていた者たちであり、そのことを自覚して、二度と「愚かなふるまいに戻らない、繰り返さないように」神様は願っておられ、そのためにこそ私たちの上に「平和を宣言される」のだと読めるのです。
 先ほど、この教会に関わる『原爆死没者』の三十三名の方々のお名前を拝読し、そして長老がそのために祈りを献げました。このことは私たちの教会で、毎年、この平和聖日礼拝の中で特別に為している「教会の祈り」です。
 それは、これだけの多くの原爆の犠牲になられた方々がおられるということ、そしてその尊い犠牲の上に今の私たちがあるということを感謝して、忘れないようにしようとの思いから始められたとお伺いしています。
 そして同時に、その死没者一覧表の裏に『戦争責任告白』も印刷されて来ています。これは、当時の日本基督教団議長の鈴木正久牧師の名前で出された、教団の戦争責任を告白する文書です。
 その中に「世の光、地の塩である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました」という文章があります。教団に属する私たちの罪について「懺悔」を公にしています。私たち主の民もかつて愚かなふるまいをしてしまったのです。だからこそ、二度とそのような愚かなふるまいに戻らないようにしたい、その願いが込められている文書なのです。
 今日の聖書の箇所から教えられる事として、この平和聖日礼拝の時に、また「原爆死没者」の方々の朗読と祈りの時に、同時に私たちこそが「愚かなふるまいに戻らないように」との決意を為し、祈りの思いを込めていきたいと願っています。
 そのためにはどうしたらいいのでしょうか?
 今日の聖書の言葉が示していることは何よりも「神様の平和の宣言を聞いてそれを受けとめよ」と言われているのです。

4、平和の連鎖
 この詩篇85編は、今まで紹介してきました九節の言葉の後に、神様の《平和の宣言》が為された後に続いて起こる出来事が記されています。
 
 『主を畏れる人に救いは近く
   栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
   慈しみとまこととは出会い
   正義と平和は口づけし
   まことは地から萌えいで
   正義は天から注がれます。
   主は必ず良いものをお与えになり
   わたしたちの地は実りをもたらします。』

 これは平和の宣言がなされたことに続いて次々に訪れるであろう良きことが示されています。
 いわば「平和の連鎖」と言えます。最初に神様からの平和が打ちたてられることによって『栄光がこの地にとどまり』、本来は相手に対して反対の態度を取りがちな『慈しみ(愛の追及)とまこと(真理の追及)が出会い』、ぶつかり合ってしまいがちな『正義(正しさの主張)と平和(和の主張)が口づけする』程に仲良くなるのだと言われています。
 そして更に、地上の人間たちの間で『まこと(社会正義)』が確立さられることに応じて、天からも地に対して『正義(正しい天の裁き)が注がれ』ることになるだろうと。
 それだけでなく、天から『良いもの(雨や太陽の光など)』を常に与えてくださることで豊かに『地は実りをもたらす』ようになるのだと。
 まさに「平和の連鎖」です。それは「天と地」がお互いに呼応し、協力し合ってもたらされる平和であることを示しています。
 言いかえれば、最初に神様が天から私たちとの間に「平和」を宣言され、私たちとの「和らぎ」が為されることによって、次々に、天と地の間に、そして人間と神様の間に「平和」が確立されていくことを教えてくれているのです。そして、その連鎖は最後には地の作物の豊かさとなるというところにまで影響を及ぼしていくのだと言われているのです。私たちはこれほどの広さや影響力の及ぶ範囲の大きさで「平和」を捉えたことがあるでしょうか? 
 ただ、人間どうしの平和だけのことを聖書は考えていません。天とこの地全体に影響力を及ぼすものとして《人間と神様との平和》を考えているのです。
 代々の教会では、この天と地の間に立てられる「神様からの平和の宣言」こそ「イエス様の御降誕と十字架」であると言い表してきました。
 イエス様がこの地上に来てくださることで『栄光はわたしたちの地にとどまり』、イエス様の十字架の上でこそ『慈しみとまこととは出会い、正義と平和が口づけ』すると。
 そして「平和の連鎖」は、このイエス様の御降誕から始まっていくのだと語り伝え、また自ら告白して来たのです。

5、負の連鎖を断ち切って
 私たちの間には、憎しみが憎しみを生み、復讐が更なる復讐を招き、戦争が戦争を呼んでいくという まさに「負の連鎖」が存在しています。それは人間の「罪」の影響とその結果に他なりません。
この「負の連鎖」を断ち切っていかなければ、また「愚かなふるまいに戻っていく」のです。その後の世界は混乱と混沌の世界しか残るものはないでしょう。
 この負の連鎖を断ち切ることは、神様からの私たちに対する《平和の宣言》を受け入れ神様との和らぎから始める他はないのです。平和の連鎖への転換なくしては、負の連鎖を断ち切ることはできません。また、罪の誘惑に陥ってしまうからです。
 私たちの人生でも、愚かなふるまいをしてしまうことがあります。かつて、その自らの愚かさにさんざん泣かされ、失望させられてきたのではないでしょうか。
 また、その「愚かさ」を繰り返すのでしょうか?またその砂を噛むような日々に戻りたいのですか?
 『彼らが愚かなふるまいに戻らないように』、「負の連鎖」を断ち切っていく勇気が与えられるように、すでに神様から宣言されている「私たちと神様との平和・和解」の中で生きる者でありましょう。
 そして、この世界が、神様との平和を受け入れ、それを基に世界の行く末(地球の温暖化など)を考えていくことができるようにと祈り続けてまいりましょう。

(8月3日礼拝説教 抜粋)