2008年9月14日 説教
【敬老の日感謝礼拝説教】
 「旅する者たちへの言葉」
牧師 武 田 真 治
マタイによる福音書 10章 15〜18節
創世記 47章 7〜10節
1、人生という旅路
 先ほど読んで頂いた創世記47章には、ヤコブさんが自分の人生を振り返りながら『わたしの旅路の年月は130年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や年月には及びません』と語っています。
 ここによく表れているように、聖書では私たちの人生がよく「旅」に喩えられます。それは日本で昔から俳句や歌にそう詠んで来た思いと繋がるかもしれません。
 しかし、日本の場合はそこで「はかなさ・無常さ」が語られるかもしれませんが、聖書の場合は、私たちが神様のもとから出てまた神様のもとへの帰る間、この地上での生活が「旅」であると語り、決して悲壮感に彩られたものではありません。むしろ、今日の新約聖書の言葉にありますように私たちは皆この地上に『派遣された』者であるのです。
 つまり、神様から何らかの目的や務めが託されて私たちはこの地上で生命を与えられているのであって、単なる偶然・過ぎ去るだけの日々ではないということです。

2、12人を派遣する
 『マタイによる福音書』は10章に入り、1節から4節に於いて、まず12人のお弟子さんが選ばれます。それが後の教会の基となっていきます。この後に多くの弟子たちが続いて行くのです。
 そして、5節以下では、そのような弟子たちが実際の伝道の現場へと遣わされるにあたり注意すべきこと・具体的なアドバイスがイエス様から教えられています。
そのように通常はこの個所は、伝道の旅をする伝道者への「心得」として読まれますが、今日は人生という旅をする私たちキリスト者への「心得」としても同時に読んでいきたいと思っています。
 この12人が派遣された目的は、7節と8節に書かれてあります。
 即ち『行って、「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい』です。
 これは、イエス様が為しておられたみ言葉の説教とみ業を弟子たちにも引き継いでいきなさいとの教えです。それらはすべてイエス様から授けられたものですから、物惜しみしないで分け与えなさいと。
 私たちの人生への心得として読む時には、まさにこのみ言葉の伝道とそして社会の癒しのために、私たちもこの世に「遣わされている」ということでしょう。
 各々に与えられた場所や役割で一人一人にきっと神様から託されている働きがあると思います。いつかそれが何か分かる時もあるのではないかと思います。

3、使命を果たすための旅に
 そして、いざ伝道の旅に弟子たちが出かける時になり、イエス様はその旅の準備について更に教えを与えておられます。それが9節と10節です。『帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も2枚の下着も、履物も杖も持って行ってはなたない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい』と。
 伝道の旅に出るに当たり、前もってお金や換えの下着や履物などを用意するなと言われるのです。むしろそのままの姿で出ていくようにとの教えです。食べることや生活のことはちゃんとその町その村に用意されているから、神様が備えてくださるはずだからと、そう言われるのです。この姿は後々のキリスト教の伝道者の理想とする姿と考えられるようになりました。
 ただ、この言葉を私たち自身の人生の旅路への教えとして読もうとしますとこれはなかなか厳しいものがあります。何の準備もするなということですから、それではまことに不安定な生活になるのではないでしょうか?
 しかし、ここには大事な信仰のヒケツが教えられているように思います。なぜ、イエス様は何も準備もするなと言われたのでしょうか?
 それは、一つには多過ぎる持ち物が誘惑や堕落のもとになってしまうという意味もあるでしょうし、また特に『野の花を見よ、空の鳥を見よ、明日のことを思い煩うな』というあの山上の説教の教えに通じる意味も込められている言葉でしょう。そのままで神様の導きに委ねる生き方を学んでいくようにとの教えではないでしょうか?
 私たちは、人生という旅が決して私たちの思い通り・計画通りには行かないということを頭では分かっています。しかし、なんとか予測をし、危機を避けようと準備をしておけば、うまく行くはずだと思いたいのです。たくさんのお金は無駄にならないはずだし、どんな寒さや厳しい状況にも対処できる着物や悪路にも対応できる履物を持ちたい、子供の将来を見通してそれこそ何とか「転ばぬ先の杖」を何本も用意してやりたいと思うのです。
 しかし、その結果、うまくいけば、それは神様のみ恵、導きのお影だと思うでしょうか?そうではありません。自分の準備がよかった、先見の明があったからうまくいったと考えます。
 また、それでうまくいかなければ、自分の準備がだめだったのだ、こんな想定外のことが起こるとは思わなかった、あらかじめ分かっていたらこんなことにはならなかったのに、とクヨクヨと最初の時の準備不足や考えのなさを嘆くのです。
 イエス様が12人のお弟子さんを現場に派遣された時は、その12人が選ばれてすぐのことでした。ほとんど訓練も受けていません。
 その上に準備もほとんどない状態で、それにもかかわらず、遣わされた理由は、そのままの弟子たちがそこで出会うことや起こることに、一つ一つに誠実に向き合わすことを大事に考えられておられるからではないかと思えるのです。前もっての準備や予想をして出かけて行き、そこで出会うことを「こんなはずではなかった」とか「想定外のことだ」と受け止めようとしないことをさせたくなかったのではないかと思えるのです。
 伝道の旅でさえそうなら、人生という旅はなおさら予測や準備が通じない旅ではないでしょうか?神様の導きや用意くださった出会いを、「こんなはずではない」「想定外だ」と受け止められないのではだめなのです。そこに大切な神様からの任務や問いかけがあるかもしれないからです。
 もし、人生という旅に必要な「備え」というものがあるならば、それこそ「信仰」ではないでしょうか?人生の旅路の只中で、たとえもうだめだと自分では思えるような状況の中に陥ったとしても、『働く者が食べ物を受けるのは当然である』と言われる神様の「導き」を信じる時になおそこで生きていけるのです。
 新潟におりました時に、会員の方でそれこそ人の借金を背負ってしまい、家のお墓まで売られる所まで追い詰められた経験をされた方がおられました。その時でもその方は「なんとかしてくださる」とそんなに心配ではなかったとおっしゃっておられました。まさに、言葉は悪いですが、「信仰によるくそ度胸」だと思いました。そしてその方は九十六歳まで生きられました。
 これこそ人生という旅をしていく時のヒケツではないでしょうか?私たちは人生という旅路において様々な出来事を通して「信じること」を学んでいくように思います。

4、失敗もあるよ
 更に、イエス様はその旅での実際の歩み方について教えておられます。特に14節では『あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出ていくとき、足の埃を払い落しなさい』と語られておられます。
 この言葉には私はびっくりします。また慰められます。なぜならば、語る言葉が聞かれないことや自分たちが受け入れられないことがあるということがそれこそ「想定」されているからです。失敗もあるよと言うことです。
 神様のわざだから、遣わされた者はみな必ず成功しなければならない、成果をあげられるはずだと考えられてはいないということです。そして、そんな時には自分はもうここには関わらないと足の埃を払って後にしてもいいと言われているのです。私たちの人生の旅においても、うまくいかない時や相手に通じないことが出てきます。まさに想定外のことが。しかし「そういう時もあるさ」と考えてよいと言われているのです。すごいことではないでしょうか?
 しかも、その上で『家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる』とも言われています。
 この言葉の意味は、一生懸命によかれと思って語った「平和の言葉」やその場をなんとかしようと為した癒しの業が受け入れられないことがあると、その自分のしたことは無駄になるのかと言えば、そうじゃないということです。その業はちゃんとあなた方本人に返ってくると、あなたがたを高め、成長させてくれるものとなるから決して無駄にはならないと言われておられるのです。まさに『働く者が食べ物を受けるのは当然である』からです。
 人生の旅を長く続けてこられた信仰者の方々に素晴らしい「若さとしなやかさ」を感じる時があります。そのヒケツはこのような「信仰」の中にこそあると私は思っています。
(9月14日礼拝説教 抜粋)